60年前の映画『十二人の怒れる男』から、Web上の匿名性について考える

十二人の怒れる男(コレクターズ・エディション) [DVD]

 

50年前の作品。そんな昔の作品を楽しんで観賞できることに、映画の普遍的なエンターテインメント性を感じる。

ラジオ劇を聞いているような、映像ではなく脚本と俳優の(声の)演技が素晴らしい作品だった。もちろん爆発など起きたりしないし、1つの部屋からの移動さえもない。最初から最後まで「1つの部屋の中で、12人の陪審員が1人の少年が有罪か無罪かを議論する」だけである。

陪審員は全員お互いの名前を知らない

12人の誰もが、お互いがどんな人で何をしているか、名前さえも知らない。その場限りだと思っているために、相手のことを知ろうともしない。

そんな状況で人はどうなるのか。「自分のことを最優先に考え、自分に都合のよい考え方をする」のである。ある人は「野球のナイトゲームに行きたいから早く終わらせよう」と言い無罪派の人を激しく非難し、ある人は「あういう育ちの悪い少年は悪い奴に決まっている」というバイアスでしか物事を話さない。

何よりも、無罪派の人が主張したことはよくよく考えてみれば疑うべきことであるにも関わらず、早く終わってほしいから、深く考えるのは疲れるから「少年は悪い奴であると決まっている」という多数派の意見に同調をしていた。

 

Webも同じ構造ではないだろうか。

多くのSNSやメディアのコメント欄、ブログは匿名で記入ができる状態で、匿名で自分の意見を述べる人がほとんどだ。

そんな状況で人はどうなるのか。(対面ではないため対話がしにくいものではあるものの)あるユーザーは、相手の話を詳しく聞こうとせず、自分に都合の良いバイアスのかかった解釈をする。あるユーザーは、対面では発しないような罵詈雑言を浴びせたりする。

そして自分が発したメッセージに対するフィードバックがないため、客観的に見ることができない。

そんな特性を理解するために本作を見ることは有意義だと思う。他にも特筆すべき点が2点ある。

▼状況:1人が無罪票で他11人が有罪票という最初の状況
裁判が終わった後に陪審員が話し合うのだが、陪審員の判断は1つのみしか許されない。12人の意見が一致しなければならないのである。
誰もが「全員有罪と判断するだろう」という状況の中で、1人だけ「少年は無罪である(少なくとも、有罪であることに疑いがある)」と主張する。無罪が圧倒的に劣性の立場から、最後はどうなるのか(大逆転になるのだが)が本作の1つの魅力である。

▼演技:映像の動きが少ない故の演技へのフォーカス
時に論理的に、時に感情的に議論は進んでいく。徐々に有罪派が無罪派になっていくのだが「有罪派だった人が、無罪であることに気づく瞬間、無罪票を入れる瞬間」の演技を楽しむことができる。ある人は議論の中では大きな反応をせずに投票の段階で後ろめたそうな顔で無罪票を入れたり、ある人は有罪であることへの自分の感情的な発言が無罪であることの裏付けになっていることに気がついたり、考え感情の揺れ動きを巧みな演技から感じることができる。

複数作品リメイクもされているということで、そちらも観賞したいと思う。

映画感想『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場』

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eyesky.jp

 

何も罪のない民間人である少女を巻き込んでしまう可能性がある中、ドローン偵察機からのテロリストへのミサイル攻撃をすべきか。

それが本作の簡単な筋書きである。それ以上でもそれ以下でもない。
緊迫感という観点でのエンターテイメント性はあるものの、ストーリーは非常にシンプルで、それだけにテーマを直視しなければならず重苦しい作品だった。


本作は所謂「トロッコ問題」を扱っている。
「トロッコ問題」とは下記のようなものだ。

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線路を走っていたトロッコが制御不能になった。
そのまま進めば、線路上にいる5人をひき殺してしまう。
そしてA氏がトロッコの先にある分岐点のところにいた。
A氏が進路を切り替えれば5人は助かる。
ただし切り替えた先にはB氏がおり、B氏はひき殺されてしまう。

「5人を助ける為に他の1人を殺してもよいか」という問題
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本作の内容にあてはめると「何十人にも及ぶ(と予測される)テロの被害者を救うために、目の前の1人の少女を犠牲にしてよいか」という問題になる。
アメリカ、イギリス、ケニア、それぞれの国に複数人の意思決定者がおり、現代のトコッコ問題について時間がない中でのギリギリの議論・駆け引きを展開する。

アメリカは単純である。完全なる功利主義で、迷う余地もなく「(少女を巻き込む可能性があっても攻撃する」という選択をする。
イギリスは、立場によって取るスタンスが違う。軍部は、その存在が敵ありきで成り立っているものであり「テロリスト=敵を攻撃をする」というスタンスだ。
一方でイギリスの大臣は、時には感情論で攻撃に反対し、攻撃という選択肢を取らざるを得なくなった場合には、他大臣・首相に(意思決定の)責任転嫁しようとする。

それぞれの正義、ジレンマがあり、決断が伸びていく。
ただ現場の状況はテロ実行に向けて刻一刻と状況が変化していく。
その緊迫感が手に汗を握らせる。


「結果どうなったのか、ということは鑑賞してもらって」ということになるが、
現代のテロ戦争におけるトロッコ問題に関して考えさせられる作品である。


そして、本作のもう1つの大きなテーマが「ドローン偵察機(無人戦闘機)の是非」である。

数年前『クーリエ・ジャポン』という雑誌で読んだ記事(海外記事を訳したもの)が記憶に残っている。『「TVゲーム化」したアフガン戦争で、兵士たちは地球の裏側から人を殺す』というタイトルの記事だ。

兵士は、何も危険のないアメリカ本土の操縦室の中で戦闘機を動かす。
画面を観ながら手元のボタンを押すと、ミサイルが放たれ画面の中の人が死ぬ。
そして時間がたつと、兵士は基地を出てタバコを吸い、スーパーで買い物をして、家族と共に家で過ごす。

子どもを無人偵察機で殺した兵士もいただろう。
そんな兵士も、家に帰れば自分の子どもがいる。
このような状況が重なった兵士は精神的ストレスがたまり、PTSDになってしまう。

記事はそのようなことを書いていた。

本作の中でも、アラン・リックマン演じる陸軍中将フランク・ベンソンは、孫のためにぬいぐるみを選んでいる描写がある。
一方で遠く離れた会議室では、民間人の子どもを犠牲にしてでもテロリストに対する攻撃をしようという話をしている。
ドローン戦争における兵士の問題点を示唆している描写だと思われる。

Newsweekの記事にも詳しいので、参照いただきたい。

www.newsweekjapan.jp


アメリカは、2016年7月に2009~2015年の間に米軍による無人機(ドローン)攻撃で死亡した民間人の数を発表し、
イラクアフガニスタン以外の地域で64~116人が死亡したとの推計を明らかにした。
当局関係者によると「厳格な報告手続きを制度化し次期大統領に引き継ぐ狙いがある」とのことである。

※参照『米、無人機攻撃での民間人犠牲者数を公表

www.cnn.co.jp



兵士の(少なくとも肉体的な)犠牲はないために、アメリカ軍は無人戦闘機を推進してきたはずだ。
そして今年のこの発表は、罪の意識と批判を最小限に抑えるための施策の2つの考えが背景にあるように思える。

国と言う大きな枠で考えると、無人戦闘機は自国の犠牲者を最小限に抑えることができメリットが大きい。ただ人道的な観点、また個人の感情の観点で考えると、存在意義が問われるものになる。
ドローンの商業利用も進んでいく中、今後もその是非に関する議論は活発化するであろうし、考えなければいけないものであろう。


最後に、アラン・リックマンと彼が演じた陸軍中将フランク・ベンソンとについてふれておきたい。
本作は、『アリス・イン・ワンダーランド』と共に彼の遺作となった。
撮影していた当時は遺作になろうとは思われていなかったかと思うが、彼が演じた陸軍中将フランク・ベンソンの最後のセリフが頭に強く残っている。

強い言葉だった。スクリーンの中の彼は、紛れもなく軍人だった。
そのシーンで、彼はその映画を、文字通り「もっていった」。

アラン・リックマンといえば、初めてスネイプ教授としての彼を見た時は衝撃だった。
スネイプ教授そのものだった。

そんな存在感のある俳優を、本作で見納めることを喜びつつこのレビューの締めとしたい。